牧師さんのノート02: 「私が初めて教会に行った時」





 私は矢板ホーリネス教会の牧師、田中敏信です。
 「私が初めて教会に行った時」の感想を、10年くらい前に書いた文章があります。「初めて教会に行った新鮮な感動が出ている、なるべく古い文章」と思って点字のノートやパソコンの中を探しましたが、なんとも整理整頓が悪いもので・・。
 ちょっと気取った書き出しですが、目をつむって読んでください。(「それじゃあ、読めません」ですか。失礼しました。)

「私が初めて教会に行った時」
 「人にはそれぞれ役目があるんだよ。聖書に書いてある『目は手にむかって、「おまえはいらない」とは言えず、また頭は足にむかって、「おまえはいらない」とも言えない。』神様は、私たちに、それぞれ大切な役目を与えていて下さるんだ」
 それは、私が初めて連れられて行った教会のそばの、喫茶店での会話の中、クリスチャンである友人の一言です。この聖書の言葉が、私の心に新鮮にひびきました。1980年の夏、当時私は、京都にある大学の「通信課程」の学生でした。
 盲学校卒業後、「自分の存在価値が実感できるような仕事がしたい」と考え、何か道が開かれないものかと、大学入試の点字受験に挑みました。結果は全て不合格。でも、そんなに簡単に諦められません。夕方から夜は、マッサージ師として働きながら、「通信課程」の大学で学ぶことにしました。
 しかしそこに、不思議な道が備えられていました。通信制の学生が、夏休みの期間に大学のキャンパスに集まります。「スクーリング」です。この時の学友、クリスチャンの彼に誘われて、初めて教会にふれたのです。
 日曜の「夕礼拝」までには、少し時間がありました。教会の近くの喫茶店で、軽い食事をしました。その時、彼にこんなことを尋ねたのです。
 「全国からいろいろな学生が集まっているねえ。中に手や足が全々動かない人もいるみたいだね。で、思うんだけど…あの人たちは、大学を卒業して、何になるんだろうか…」
 今思い出しても、なんと失礼な事を考えていたものかと、恥ずかしさがこみ上げて来ます。しかしその私の心の中には、一つの「うめき」があったのです。
 「こうして勉強して、私にどんな将来が開かれるんだろうか…」との不安、この不安に答が欲しかったのです。
 クリスチャンであるこの友人が、ゆっくりと話し始めました。「人にはそれぞれ役目があるんだよ。聖書には、こう書かれている…」と、それが先の答えなのです。
 「人にはそれぞれ役目がある…」しかも『神は御旨のままに、肢体をそれぞれ、からだに備えられた』という。この言葉が心の中を行ったり来たりしました。そして心の片隅に、暖かいものが残りました。
 およそ15分後、私は京都福音自由教会の、夕礼拝の席に座っていました。
 何もかも初めての経験です。初めて入った礼拝堂、初めて座った木製のベンチ、初めて手渡された点字の聖書と賛美歌…。オルガンの前奏が終わります。緊張して座っていた私の周りで、賛美歌が始まります。「いつくしみふかき、ともなるイエスよ…」と。何と美しいメロディー、そしてハーモニーなのでしょうか。
 「こんな清らかな場所があるなんて、こんな美しいハーモニーがあるなんて…。そうだ、教会に行こう。そうしたら答がわかるかも知れない。これから何のために生きて行けばいいのか、教えてもらえるに違いない」と、思ったのです。
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