牧師さんのノート21:
「広島の8月6日」




 私は矢板ホーリネス教会の牧師、田中敏信です。
今回は「広島の8月6日」がテーマです。

 2007年8月6日、午前8時15分。栃木県矢板市は、ジリジリと痛いような日差しで1日が始まっています。「あの朝も、そうだったんだろうなあ」と思いながら、私はテレビの前に座っています。広島の平和公園で行なわれている「平和記念式典」の様子が、テレビから流れています。
 まだ小学校に入っていない時だったと思います。母や姉が神妙な顔をして、ラジオの前に座っていました。その傍に、私も並んで座って、「平和記念式典」の様子を聞いたのを、かすかに覚えています。広島市から東に約40キロの、山間の実家でです。

 郷里広島を離れ、東京で聖書の勉強をしていた時にも、また当地矢板に来てからも、「この日のこの時間」は、私の心はいつも広島に向かいます。
 北海道出身の家内に、結婚した次の年に「原爆って、何を連想する」と聞きました。
 東京で出会った友人に聞いた事があります。「原爆って、何を連想する?」
 栃木で出会った友人にも聞きました。「原爆って、何を連想する?」
 「戦争の時に広島に落とされた、あの『爆弾』でしょう」と、答えが返ってきました。私は、ちょっと意外な感じがしました。

 私が連想する「原爆」は、『核物質が詰まった爆弾』ではありません。
 1瞬のうちに闇に包まれた町。上がる火の手の中を逃げ惑う大やけどの人々。痛みと叫びと悲しみ。そして今も残る後遺症…。
 広島で育った私にとって「原爆」は、その悲しさと、平和への願いなのです。

 1945年8月6日の朝、広島から40キロも離れているのに、私の郷里でも原爆の光は見えたそうです。年の離れた姉から、何度も聞かされました。
 「校庭に、朝礼で並んどったんよ。西の空が桃色に光ったんよ。しばらくしてから、ドーンいう音がしたんよ。そうしたら、西の空に、見たこともないような黒い雲が、もくもくと上がりだしたんよ」

 原爆投下の日の三日目、私の母は、実家でお葬式があるというので、広島市内を通りました。
 「広島市内は列車では通れんゆうて、手前で下ろされたんよ。歩いて広島駅まで行ったんじゃがねえ、水道の水が出っぱなしになっとって、張り紙がついとったん。『この水は毒です』ゆうてねえ。放射能が混じっとる、いう事じゃろうね。駅の前ではねえ、馬車が焼けとって、まだくすぶりょうたんよ。馬が、繋がれたまんまで、倒れて死んどったんよ」

 私は牧師になる前、広島市内で、マッサージの仕事をしていました。マッサージの患者さんが、こうおっしゃるのを聞きました。
 「首筋のそのあたり、ちょっと皮膚が硬いでしょう。そこは、原爆の火傷の跡の、ケロイドなんよ」
 「あっ、そこはマッサージしないで下さい。原爆の時に刺さったガラスが入っとるけんねえ」

 涙がこぼれそうになったお話もあります。
 「川のほとりの土手に、アメリカの兵隊さんが倒れとっちゃったんじゃ。捕虜にされて入れられとっちゃった収容所も、原爆で焼けたけんのぉ。それで川まで逃げて来て、息がつきちゃったんじゃ。両手と体を、トゲトゲの鉄条網の針金で、縛られたまんまで、死んどっちゃったんじゃ。じゃが、私らも、ひどい事したんよ。そのアメリカの兵隊さんに、石を投げつけたんじゃ。『こがあなひどい事しやがって』ゆうてのう…」

 私が小学5年生の夏でした。見えなくなりかけた目の手術のために、病院に入院して、ラジオを聞いていました。
 正確には覚えていないのですが、こんな内容が聞こえていました。
 広島の平和公園にある、原爆死没者慰霊碑に、
「… 過ちは 繰返しませぬから」
と、書かれています。この石碑の言葉を英語に翻訳する時に、どう訳したらいいかという話題でした。
 「『過ちは 繰返しませぬ』というのは、だれの発言ですか。『私』・『私達』・『彼』・『彼ら』…。だれが、過ちを繰り返さないんでしょうか」
 新聞への1通の投書がきっかけになったようです。「原子爆弾を落とすような悪いことを、だれがしたのか」という議論が交わされていました。「アメリカ人が悪い」・「戦争を引き起こした日本人が悪い」・「戦争を始めた軍部が悪い」…
 5年生の私でしたが、答えが少しわかりました。
 「あやまちを繰り返しちゃぁいけんのは、『ぼくら』なんじゃ」

【 聖 書 の み 言 葉 】
[マタイによる福音書5章9節]

平和をつくり出す人たちは、さいわいである、 彼らは神の子と呼ばれるであろう。

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