牧師さんのノート17:
「私と天国」




 私は矢板ホーリネス教会の牧師、田中敏信です。
今回は「私と天国」というテーマにしました。

 聖書の中には、2種類の天国が書かれています。
  (1) 世界が終った後、与えられる「未来の天国」
  (2) 神様が共にいて下さる「今の天国」
の2種類です。

 ちょっと説明しますね。
「あなたは死んだ後、どこに行くのですか?」「はい、天国です」という時の天国が、「未来の天国」です。
これと同じように、今の暮らしの中で神様が共にいて下さる「今の天国」という事も、聖書は教えています。
うぅん。まどろっこしい言い方ですね。これならどうですか。
「天国の本番」と「天国の予告編」です。

 そこで本題です。
「天国の予告編」については、また別の機会に書かせていただくとして…。
ずばり、「未来に与えられる天国」について「田中敏信牧師さん」が、どんな事を考えているのかをご紹介します。

 私には、「目が見えない」という特殊事情がありまして、まっちょっと、天国について深い思い入れがあるんですね。
横道に逸れますが、私は、目が見えないという事を「ハンディキャップ」とか「災い」・障害」なんて、感じていないんです。逆に、「なかなかいいものですよ」なんて言って、「そんな!軽々しい」と、しかられそうになったりして…。

 私のパソコンのハードディスクの中に、次のような文章がありました。
牧師さんのノート02: 「私が初めて教会に行った時」 の続きです。


「人の目から涙を」

 あの時から3年目だったと思います。私は、当時暮らしていた小さなアパートの一室で、一人で座ってお祈りをしていました。30分、1時間と、時が過ぎて行く中、祈りの言葉がなくなり、心の中に悲しみが溢れ、涙になって溢れて来ました。
 もう洗礼を受けてクリスチャンになっていました。罪人である私の身代わりに、イエス・キリストが十字架で死んで下さった。そのあがないによって、新しい命が与えられ、天の御国にまで導きいれて下さる。罪と死の問題は解決されていた…いえしかし、本当の意味では解決されていなかったのです。
 私には、「目が見えなくなった」という、答を与えられなければならない、もう一つの課題が残っていたのです。

 「神様、どうして私の目は、見えなくなったのですか。神様、どうして私の目を見えなくしてしまわれたのですか。もう1度見たいのです。あの澄み渡った青い空、あの空を写して光る川の流れを、見たいんです。どうして見せてくださらないのですか」
 言葉がとぎれて座り続けます。もう真夜中です。遠くから、犬の遠吠えが聞こえて来ます。その時、お祈りの言葉が出て来ました。
 「神様!あんまりじゃないですか。あの犬だって!目が見えるのに、どうして私だけ、見えなくなさったんですか!」
握り拳を、畳に打ちつけました。
 しばらくすると、今度はベランダの先を、猫が通りかかります。
「神様!あんまりじゃないですか。猫だって目が見えるんですよ。しかも真っ暗でもですよ。どうして私は、見えちゃいけないんですか…」
 畳の上で堅く結ばれた握り拳に、涙が落ちました。後から後から落ちました。手の上に落ちなかった涙が、そのまま畳の上に落ちて、ポタッと音がしました。

 そのまま座り続けました。畳の上に臥していると、眠くなりました。どのくらいの時間が過ぎたでしょうか。ふと目が覚めると、涙は乾いていました。
溜息をついて顔を上げた時です。聖書の言葉を思い出しました。

[ヨハネの黙示録21章3節〜4節]
見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と
共に住み・・・神自ら人と共にいまして、
人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。

 「すごいぞ!いいじゃないか!あそこに行ったら、見えるんじゃないか。そうだ!聖書には『川の両側にはいのちの木があって、…その実は毎月みのり、その木の葉は諸国民をいやす。』と書いてあるじゃないか!」
思わず笑いがこみ上げて来て、ついでに生来のくいしんぼうも目を覚まして来ます。「決めたぞ、あの実や葉を食べさせてもらおう」

 この世界で、後どれだけの時間が与えられているのでしょうか。それ程長くはない。天の御国の「永遠」と比べると、それは、つかの間のことでしかない。目の見えない時間より、見えている時間の方が、はるかに長いではありませんか。
何と言ってもそこは、私のために十字架に架かって下さったお方、イエス様が共にいて下さる、祝福が満ちている都なのですから。

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